やまゆり園事件植松被告の死刑判決を受けて ーいま生きているということの絶対的な価値をつくるー

ホームレス支援をされている、牧師でもある奥田知志さんのnoteでの発信です。

この事件の公判のニュースが流れるたびに、植松被告の言動に衝撃や怒りを覚えた方は多いかもしれません。私もその一人なのですが、同時に「どこから、多くの人たちと違う道を歩んでしまったのだろう」と、考えてしまいます。

「自分の生きる意味ってなんだろう」
「自分の存在意義はあるのか」

と考えたことのある人もいらっしゃるのではないでしょうか。自分の存在意義を、自分が実感するだけでなく他の人たちにも感じてもらいたい、「私が、確かにここにこの時代に生きていた」という証がほしい、誰かに覚えていてほしい・・・そのようなことを、私は考えたことがあります。

冒頭のnoteの記事で奥田牧師は、やまゆり園での事件について、「NHK神奈川 NEWS WEB」で

『生きる意味があるか』というのは、実は現代における自問で、それを被告は障害者に向けたが、根っこのところでは彼自身がおそらく『俺は生きる意味があるのか』と自問していたのではないか。

とコメントされたとのことです。この事件で感じる「やるせなさ」(「やるせない」という言葉を使えるところが私の非当事者性なのかもしれません)は、

根っこのところでは彼自身がおそらく『俺は生きる意味があるのか』

というところからきているのかもしれないと思いました。

「生産的かどうか」という尺度で人をはかり価値を決めるのは、何も植松被告に限ったことではありません。

働いている(働ける)かどうか
子どもを生んでいる(生める)かどうか

など、当事者の意思や状況とはまったく関係のないところで社会に “貢献”できているかどうかという尺度で、人の「価値」を無意識に判断していないでしょうか?


植松被告は、他人の生命を奪い、ご家族から大切な人を奪いました。その行為は「信じられない」のですが、他方で、私たちは、社会的にだれかの可能性を奪い、社会的に「存在しないもの」として生活していないか。どこかで自分のあり方は植松被告とつながっているのではないか。それを認めたくはない自分が、彼と自分の違いを証明しようと自分の考えを正当化させようともがいているのではないか。正当化させるために彼への量刑を支持しようとしていないか。

奥田牧師の発信と、植松被告に関する報道から、結論がでない、輪郭がとらえきれない思いが頭をめぐったのでしたが、頭の中がそのまま反映されたような、まとまらない文章になってしまいました。